左官一服噺  歴史○火事と喧嘩は江戸の華(Fire and fight the Edo Hana)115

 

黒漆喰の外壁に庇のある見世蔵

左官仕上げが多い看板建築とは「江戸期よりの町屋の 近代化に於ける最初の発展段階を示す 昭和初期の都市住居の形式である。」 とあります。ならば、看板建築以前の江戸期よりの「町屋とはなにか?」です。看板 建築の名称の産みの親である藤森照信氏は、江戸時代以来一般的だった商店 (店舗兼住宅)は、土蔵・塗屋・出桁造りであるといいます。ということは、土蔵建築の行く末が看板建築に繋がることと思います。
江戸幕府にとって火事は微妙な存在でありあました。幕府は、本気で火事を克服しようとしているかは疑わしいのです。幕府は、富を貯めさせて大火で金を使わせることで,
商人の力を削ること ができると思っていました。商人の富が蓄積することで 商人の力が強くなることを火事で調整することで、封建社会を維持しようとしていたことは確かです。
度重なる大火に対して、一般庶民は悲観にくれるかというとそうでもなかったのです。ひとたび大火があると、表通りの大店は、火に備えて、木作りのすんだ木材を深川木場に預け、一朝事ある翌日からは、早くも灰をはらった礎石の上に前と寸分たがわぬ柱を立て、梁 を渡して店をかし建て上げ、河岸倉から荷を運び、先を争い、大戸を開いて客を呼んでいました。

裏通りの長屋住いの職人や棒手振(ぼてふり)も負けてはいません。好機到来とばかり滞る家賃を踏み倒し、道具箱一つ、天秤一本かかえて他の町に逃げ去ります。 火事場の跡には、仕事が焼け棒杭の数ほどに、ころがっていたのです。大工をはじめ左官、鳶、瓦屋、畳職、経師、指物師といった腕におぼえの職人衆はむろんのこと、腕はなくとも力があれば焼け土の跡片づけ、女・子供は焼け釘ひろいの小遣かせぎと仕事のねたにこと欠かなかったのです。
江戸の町人人口に占める建設職人の割合がとびぬけて大きかったのも、年中行事のように繰り返す火事の結果といえます。人だけではありません。材木商を筆頭にさまざまな建設資材の商人にとっても、火はにくからぬ商機にちがいなかったと思います。
このように江戸の火事はうしろに多くの人間と物の流れを伴っており、おそらく、建てては焼け、焼けては建てる循環は、封建都市にとって、社会的・経済的なシステム にすら成長していたと思われます。
ひとたび生れたあとは、逆に火事を不可欠としたことも否定はできません。仕事にあぶれた職人は、北西風の ざわめきに半鐘の混じるのを心待ちにしたといわれますし、出火の理由に怪火や放火の多かったのも、こうした事情と無縁ではありませんでした。
火事は封建都市最大の産業であったのかもしれません。このように江戸は大火の多い都市でありましたが、こうした状況は明治になっても続きました。しかし、明治政府は、火事が大き な障害になると考えだしました。残念ながら、明治時代に入 っても東京の中心部での大火が相次いだことは事実です。

明治15年には中央区だけで2万棟 消失するが、政府は困り、本気で火事 を克服する努力をするようになります。江戸期からの商店建築は土蔵造、塗屋造、出桁造があります。 明治期の土蔵造・塗屋造は、どのようなものであったのかですが、
見世蔵は、構造が土蔵造りで道路に面し、その全面を開放的になりような店構えをして数個の土戸や胴貼りの戸を備えていました。土蔵造は木骨土壁の耐火建築構造で、壁厚は20~30㎝になります。開口部は、観音扉となり、見世蔵に付随する、倉庫は河岸の蔵で白亜の妻壁に記号を印して、妻を正面とし、出入り口 両面に開かれます。また倉庫の開放する扉は、道路に面してが両開き戸で、川 に面して、裏白戸のみでありました。
塗家造りは、板張り土塗りまたは瓦貼土塗りの土蔵の工法に依るものでした。下家庇上の窓は、多くが漆喰塗の連子格子となっています。塗屋造は、木骨土壁の耐火建築構造で、壁厚は10~18㎝程度であります。
出桁造り(だしげたづくり)は近世民家形式で、梁、または 腕木を突き出して側柱面より外に桁を出した構造のものとされています。

杉並の左官です。塗り替え、リフォームお待ちしています。電話03-3398-4335 http://s-kent.jp/contact/

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