左官一服噺  建築様式○看板建築( Signboard building )101

東京建物園の看板建築

看板建築の発祥と命名です。

『看板建築』とは、関東大震災以後、商店などに用いられた建築様式で、建築史家藤森照信氏が命名したものです。それ以前は、「街路建築」などと呼ばれていました。藤森氏の著書「看板建築」(三省堂)P7によると、「この看板建築の四文字がはばかり出たというと、日付まではっきりしていて、昭和50年10月11日で、場所は大岡山の東京工業大学の一室だった」とあります。

昭和50年建築学会の梗概集(P1573)に記載されている看板建築とは「江戸期よりの町屋の近代化に於ける最初の発展段階を示す昭和初期の都市住居の形式である。」と示されています。ならば、看板建築以前の江戸期よりの町屋とはどのようなものであったのかという疑問があります。藤森氏は、その答えを「江戸時代以来に一般的だった商店(店舗兼住宅)は、土蔵・塗屋・出桁造りである。」としています。

①「土蔵造り」は、木骨土壁の耐火建築構造で、壁厚は6寸(約18㌢)以上で、開口部が、観音扉となるものです。

塗屋造り」は、木骨土壁で、壁厚が3寸(約9㌢)程度のものです。

③「出桁造り」は、近世民家形式で、梁、または腕木を突き出して側柱面より外に桁を出した構造のものです。

出桁造りの変貌は、関東大震災以後の土地区画整理事業によるものです。出桁造りは江戸時代以来の商店で、軒を大きく前面に張り出した出桁の「軒」が、関東大震災以前に商店の「格」をも示していました。しかし、関東大震災以後の復興では、土地区画整理事業の実施によって、街路を拡幅したため、各商店にとって敷地面積を減らさざるをえず、軒を出すのは不利に働いきました。

また、耐火性を向上させるため、建物の外側をセメントモルタル、銅板などの不燃性の外壁材で覆う必要がありました。ここに外壁は、江戸期からの漆喰外壁からセメントモルタルへの切り替えとなります。さらに、庶民層の間にも博覧会の影響も加わり、洋風意匠への志向が強くなってきていました。こうした条件が重なり、震災復興の過程で大量の看板建築が造られることになります。

看板建築は、『江戸・明治期から伝わる土蔵、擬洋風建築建機が大衆化したもの』という見方もできます。

藤森氏は、「大正12年9月1日までの東京の商店街は、江戸の延長の上に発達した。銀座と並ぶ東京の中心商店街の日本橋大通は、関東大震災の前まで、蔵造の街であり、他の下町地帯の商店街のほとんどすべてが、蔵造、塗屋造、出桁造といった伝統形式で造られていたと考えても間違いはない。」と述べています。さらに藤森氏は「関東大震災、によって、土壁が落ちて丸裸となったただの木造商店は、火の攻勢の前にひとたまりもなかった。」と述べ、「その後、焼け跡に立ち上がった、バラックの商店が、やがて看板建築の誕生に大きな影響を与えることになる」と解説しています。

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