左官一服噺  建築様式○看板建築2( Signboard building2 )102

埼玉県川越市の街並み。川越市は見世蔵の町並で有名である。 二階建平入りで下屋庇がある。庇下は三尺出して、庇上は三尺下がっている。左官は火災時に庇に登り消火の足場とし観音扉の目塗りをする。

看板建築とは「江戸期よりの町屋の近代化に於ける最初の発展段階を示す昭和初期の都市住居の形式である。」とあります。ならば、看板建築以前の江戸期よりの町屋とは、「何であるか?」ですが。看板建築の名称の生みの親である藤森照信氏は、「江戸時代以来、一般的だった商店(店舗兼住宅)は、土蔵・塗屋・出桁造りである」といしています。この部分は前回の102に述べています。今回は、左官仕上げの多い土蔵建築の行く末が、看板建築に繋がることを順序にして著してみたいと思います。

江戸時代「火事と喧嘩は江戸の華」といいますが、江戸幕府にとって火事は、微妙な存在であったのです。藤森氏は、「幕府が、家事を本気で克服しようとしているかは疑わしい。」としています。それは、「富を貯めさせて大火で金を使わせることで、商人の力を削ことができる。商人の富が蓄積することで商人の力が強くることを火事で調整することで、封建社会を維持しようとした。度重なる大火に対して、一般庶民は、悲観にくれるかというとそうでもなかった。ひとたび大火あると、表通りの大店は、火に備えて、木作りのすんだ木材を深川木場に預け、一朝事ある翌日からは、早くも灰をはらった礎石の上に前と寸分たがわぬ柱を立て、梁を渡して店をかし建て上げ、河岸倉から荷を運び、先を争い、大戸を開いて客をよぶ。裏通りの長屋住いの職人やぼてふり棒手振も負けてはいない。好機到来とばかり滞る家賃を踏み倒し、道具箱一つ天秤一本かかえて他町に逃げ去る。火事場の跡には、仕事が焼け棒杭の数ほどころがっていた。大工をはじめ左官、鳶、瓦屋、畳職、経師、指物師といった腕におぼえの職人衆はむろんのこと、腕はなくとも力があれば焼け土の跡片づけ、女子供は焼け釘ひろいの小遣かせぎと仕事のねたにこと欠かなかった。

 江戸の町人人口に占める建設職人の割合がとびぬけて大きかったのも、年中行事のように繰り返す火事の結果といえよう。人だけではない。材木商を筆頭にさまざまな建設資材の商人にとっても、火はにくからぬ商機にちがいなかった。このように江戸火事はうしろに多くの人問と物の流れを伴っており、おそらく、建てては焼け焼けては建てる循環は、封建都市にとって、牢固な一つの社会的・経済的なシステムにすら成長していたと思われる。そして、世のあらゆるシステムとおなじように、ひとたび生れたあとは、逆に火事を不可欠としたことも否定はできまい。仕事にあぶれた職人は、北西風のざわめきに半鐘の混じるのを心待ちにしたといわれるし、出火の理由に怪火や放火の多かったのも、こうした事情と無縁ではない。火事は封建都市最大の産業であったのかもしれない。

このように江戸は大火の多い都市であったが、こうした状況は明治になっても続いた。しかし、明治になり資本主義となると明治政府は、火事が大きな障害となる。しかし、明治時代に入っても東京の中心部での大火が相次いだ。明治明治15年には中央区だけで2万棟消失するが、政府は困り、本気で火事を克服する努力するようになる。」とあります。

藤森氏は看板建築の出現に関して「江戸期からの商店建築が大きな影響を与えている」といいます。見世蔵、塗家造、出桁造は看板建築が現れるまで、各地の商店の町並を形成していました。関東大震災後、これら3つ形態は大きな変化を見せます。震災直後の見世蔵の蔵造は、建築家の創りだす意匠的なバラック建築となり、そしてアール・デコの鉄筋コンクリートビルとなります。この地の住民も、日本古来からの商店と住まいが同一でなく職・住分離の状態となります。一方、見世蔵のように大きな商店主でない、塗家造、出桁造は、まず住むためのバラックとなり、その後、看板建築を織りなします。看板建築の特徴は、鉄筋コンクリートビルと異なり、商店と住まいが同一なものでありました。

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