左官一服噺  人物○吉田亀五郎(kanegorou-yoshida) 45

吉田亀五郎は、東京を代表する左官職人で、伊豆長八の弟子でもあります。弘化元年(1844)に三代続いた左官業の吉田辰五郎の子として生まれました。四谷街道沿いの代々店先で馬の藁沓を売っていたので別名「沓亀」とも呼ばれ号を「亀甲」と称していました。生家の四谷は、甲州街道の出入り口であったため冬場の寒さをしのぐのに藁で作った沓で人馬ともどもそれを履いて凍傷を防いでいたそうです。また、藁が左官材料のひとつで、その藁で左官をしながらのかたわらで、藁沓屋を営み「沓屋の辰五郎」の倅(せがれ)で略して「沓亀」とも呼ばれるようになったといわれています。また、吉田亀五郎の先祖は江戸の町に水道を引き込んだ多摩川庄右衛門に協力していたとされています。

亀五郎が11才のときに母を失い、他の左官に奉公に出て左官の技術を収得しています。左官の修行をしながら狩野派の絵を学び、尊敬する伊豆長八のもとに泊まり込みで漆喰彫刻を学んでいます。父辰五郎の死後に二代目辰五郎を継ぎ独立しています。身長は170㎝あまりで、当時としては大男で押し出しがありましたが、性格が温厚で信仰心に篤かったといわれています。

吉田亀五郎は多様な建築分野での装飾を携わり活躍するようになりますが、有名な作品として最初は、明治5年(1872)の29才のときに、三井組新橋為換座で長大な軒下蛇腹に波模様の塗り出し仕上げの大作を製作しています。この建築は新しい三井組の本拠地として建設され二代目清水喜助の設計施工によるものです。「西洋造り」といわれ当時の洋風建築は、豪商のステイタスシンボルの様相を示すものでもありました。その象徴性は洋風建築と伝統的日本の城郭建築を組み合わせたようなものであり、かつてない大胆な形態を持ち合わせていました。

明治6年(1873)には、岩谷天狗煙草店(松屋デパート)での屋上の球体に乗る天狗像塑像等を製作しています。銀座二丁目という場所柄、人目を引くため当時の庶民の間で評判となり吉田亀五郎の名声は一気に高くなりました。

明治22年(1889)には、神田駿河台のジョイアンサ・コンドル設計のニコライ堂を手がけるようになります。亀五郎45才で、ちょうど人生、脂が乗り切った時期でもあります。一方のコンドルは日本を愛し、日本人と結婚しています。日本での建築は自分の手となる職人をコンドル自身で集めており、亀五郎もその一人でもありました。

左官亀五郎はその後、「東宮御所」(片山東熊設計)の室内装飾を手がけ大正元年に左官業を引退して、漆喰細工に専念するようになります。晩年の10年間は、素焼の土鍋(どなべ)である焙烙(ほうろく)の鏝絵を2日で仕上げ、額縁彫刻、置物、塑像など依頼に応じて製作していました。この時代には、亀五郎の直系の弟子や亀五郎の流れを組む左官装飾師、建築彫刻模型師と呼ばれたものたちが活躍し、公共建築や大建築に石膏を中心にした建築装飾が行われようになった時代でもあります。弟子には、有名な熊木三次郎、伊藤菊三郎、池戸庄次郎等がいる。

大正11年88才で没しています。多くの作品を残したが残念ながら2年後の関東大震災と、その後の戦災によって多くを失なっています。

猩猩(しょうじょう)   吉田亀五郎作

猩猩(しょうじょう) 吉田亀五郎作

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