左官一服噺  建物○岩科学校(いわしながっこう)Iwashina school 36

正面の唐波風は、格式が高く、日本ばなれした形式が西洋建築を模するのに適していました。唐破風にある「龍」彫り物は、入江長八が大工棟梁である高木久五郎の「鑿(のみ)」を借りて彫ったと伝えられています。

正面の唐波風は、格式が高く、日本ばなれした形式が西洋建築を模するのに適していました。唐破風にある「龍」彫り物は、入江長八が大工棟梁である高木久五郎の「鑿(のみ)」を借りて彫ったと伝えられています。

岩科学校(いわしながっこう)は擬洋風の和洋折衷建築として知られています。また、ここ静岡県松崎町は伊豆長八の出身地で、長八の作品が多く展示されています。建築に関しては、当時の松崎名主であった佐藤源吉によって新築計画が進められ、設計施工は、地元大工棟梁で高木久五郎と旧岩科役場の棟梁であった菊池丑太郎の両雄の手で建設されました。名主佐藤源吉は、文政12年(1829)岩科村指川に生まれで、教育に情熱を注ぐ人材として地元でも有名でありました。学校建設計画実行のために、地元棟梁の高木久五郎、菊池丑太郎らに伊豆の函南・三島・沼津のそれぞれの学校建築様式を調べさせ、小学校の基本プランをまとめ上げ、建築工事に着手しました。

その、名主佐藤源吉の経歴としては、岩科学校創設前、松崎の盟友依田佐二平とともに謹申学舎私塾を開設していました。その塾長に戊辰戦争に活躍した会津藩家老であった保科頼母(旧姓は西郷)を迎え漢学が教えられておりました。その私塾から多くの逸材を輩出しています。

保科頼母の母や妻子は、戊申戦争の会津若松城の落城のおり、自刃しており、家族の受難が戊辰戦争の悲話され、武士の妻女としてその誉れが高いことで有名でもあります。頼母と岩科村の関係は会津藩士を謹申学舎私塾前身の大沢学舎に招いた縁であるとされます。更に依田佐二平が静岡へ出向いた折り、西郷頼母が、保科と姓を変え館林藩で幽閉されたいたことを知って、佐二平が頼母に塾長を頼みこんだことによります。なお当時、会津出身者は戊辰戦争で敗れたことから国賊のように扱われ、思う職に就けない状況にあったようです。

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