左官一服噺  歴史○卯建(うだつ)の歴史(れきし)The history of udatsu 35

めずらしい徳島県貞光町の二層卯建 吉野川の上流で支流の貞光の川沿い南岸の卯建には、鏝絵が施されている。

めずらしい徳島県貞光町の二層卯建
吉野川の上流の貞光町の卯建には鏝絵も施されている。

卯建(うだつ)とは、梁の上に立てる短い束、妻壁を防火などのため屋根より一段高くしたところ、妻壁の横に張り出した袖壁のことで、身分の象徴とされるものです。卯建の歴史として最初に文献として見られるのは、『宇太知』と古文書に書かれており,「和名類聚抄」に『うつ梁』としての意味で『小屋梁の上に立っている束の意味である』とされています。切妻の側壁に小屋組が屋根上に迄、突出しているものを『うだち』として称していました。地方によって、『火除け』、『火返し』、『火回し』、『火煽り』、奈良地方では『高塀』とも呼ばれています。

『卯建』・『卯立』・『卯立』・『卯建』・『卯辰』・『梲』とも書き『うだつ』・『うだて』・『うだち』とも読みますが、ここでは『卯建』と書き『うだつ』と呼ぶことにします。

商業が発達してき室町期の京の町家では、隣家と接している場合、屋根の傍軒を伸すと隣地を侵すことになります。しかし、屋根を外壁面で見切ると雨仕舞いに支障がおきます。それで側壁の立ち上がりの部分に小屋根をつけた卯建ができるようになりました。

かつての町家は、板葺の屋根が多かったので、卯建は屋根の葺き仕舞の始末がよく、屋根板が風に煽られるのを防いでいました。これらは屋根の破風や螻羽(けらば)の保護もできました。縦引き大鋸が一般的でなかった時代、長板の破風板を作るより、軒先や螻羽より上に土壁をつくる方が容易であったのです。さらに、この時代の卯建は、防火壁の役目より隣家との境界の役目が主だったのです。家の区切りが明確になると、その家が自分の持家であることもはっきりしました。商人は自分の持家に住まなければ、信用も得られなかったし、一人前にもあつかわれなかったのです。このようにして卯建は、「家の境を見分ける」という機能的なもの以外に地位、信用、広告という階層的な象徴ともなります。ここに、本家を独立した長屋住まいの分家層が『一人前』としての境界線を屋根の上に卯建を建てたてることで『卯建が上がる。』という名言が広まることになるのです。

江戸時代になって都市が発達し、大火が頻頻と発生すると、卯建は防火壁として発達していきます。瓦屋根の普及と左宮技術の進歩によって、壁体はしっかりとした漆喰の塗籠めとなり、屋根も燃えない瓦葺きのとしたものとなっていきます。

そうなると、屋根上に高く抜きんでいる卯建は、次第に無用のものとなり、軒下の袖壁だけでも充分に延焼を防げるものとなります。この袖壁を「火返し」、「火煽り」「火除け」等と呼ばれるようになります。

このようにして、町屋の妻壁には、螻羽下を塗り壁にしたり、「袖壁」または「火除け」を設け隣家との堺にも袖壁を備えるものが出現したのです。これが、現在の卯建とされるものです。

このように、室町期より発生した屋根上の卯建は、江戸期の土蔵造りの発生により、自然に衰退していきます。江戸期には袖壁の卯建が発展していきます。袖壁の卯建は社寺のような建物には不向きですが、「ふんどし」という一筋の宿場町や町屋では、防火的効果が大きく、同時に装飾的で看板効果がでます。さらに付加の効果として、夜這い除けでもありました。

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