左官 一服噺  落語に出てくる左官 「文七元結」

落語に登場する左官職人は、人がよく人情味に満ちあふれ、まさに江戸っ子気質(かたぎ)であります。今回と取り上げる落語の出し物は、文七(ぶんしち)元結(もっとい)です。

*本編は、現在使用されていない用語や不適切な記述がありますが、落語という文化性を踏まえご了承ください。

 

文七(ぶんしち)元結(もっとい)

文七元結は、幕末から明治初期にかけて江戸っ子の心意気を描写した江戸の噺である。この噺は、『人情噺文七元結』(にんじょうばなし ぶんしち もっとい)として歌舞伎でも演じられ、先代、先々代の中村勘三郎が演じていることでも有名です。文七元結の作者は明治期の大名人である①三遊亭圓朝であります。現在この名は落語界で「止め名」としています。大まかな噺の筋を以下に著わし、下線部分に番号を付けて解説として示しています。 

文七元結」の噺のあらすじ

江戸は②本所達磨(だるま)横町(よこちょう)(現墨田区)に住む③左官の長兵衛(ちょうべい)は、腕は立つのだが、博打(ばくち)が大好きで、左官の仕事もしないため多額の借金を抱えている。

「本所の達磨横町に左官の長兵衞という人がございまして、二人前(ふたりまえ)の仕事を致し、早くって手際が好くって、④散り際(ちりぎわ)などもすっきりして、⑤落雁肌(らくがんはだ)にむらのないように塗る左官は少ないもので、⑥戸(と)前口(まえぐち)(とまえぐち)をこの人が塗れば、必ず⑦火の這入(はい)るような事はないというので、何(ど)んな職人が蔵を拵(こしら)えましても、戸前口だけは長兵衞さんに頼むというほど腕は良いが、誠に怠惰(なまけ)ものでございます。」「」内は圓朝全集より抜粋。

年の瀬も押し迫るある日、前夜の負けがこんで、⑧身ぐるみ剥がれて、尻切(しりき)れ半纏(はんてん)一枚で賭場(とば)から帰されると、女房のお兼(かね)が泣いている。聞くと、娘のお久(ひさ)がいなくなっているという。長兵衛お兼が夫婦喧嘩をしているところに、長兵衛が仕事の出入りとしている吉原の大店の⑨佐野(さの)槌(づち)から使いのものがきて「親方いるか」と訪ねて来る。取り込み中だから後にしてくれというと、他でもない、その娘のお久が佐野槌の女将(おかみ)の所に身を寄せているという。

長兵衛は女房の着物を一枚羽織(はお)って佐野槌へ行くと、お久は、「身売りをして金を工面(くめん)し、父に改心してもらいたいので、女将に頼み込んだのだ。」という。女将は、「お久の身体は預かって女性の一通りの事は習わす、しかし、次の大晦日(おおみそか)までに金を貸してやるが、大晦日を一日でも過ぎたら、店に出す。」という約束で、長兵衛に⑩50両の金を貸し渡す。

お久は、「その金で帰りに変な所に寄ったりしないで、お母さんに親切にしてよ」と長兵衛に言い聞かす長兵衛は情けなく思うが、改心して帰り道の⑪吾妻(あづま)橋(ばし)に来ると、身投げをしかけている男にでくわす。訳を聞くと、白銀町(しろがねちょう)の鼈甲(べっこう)問屋(どんや)「近江屋(おおみや)」の奉公人である文(ぶん)七(しち)は、⑫小梅(こうめ)の水戸(みと)様(さま)へ集金して、帰りにその50両の大金をすられた。文七は「死んでお詫びを」と、いうところだった。「死んでお詫びを」、「いや、死なせねぇ」と押し問答が続いた後、長兵衛は、「自分の娘のお久が身を売って50両を工面してくれた。」ということをはなし、「この50両でお前の命が助かるのなら、娘は死ぬわけではないので」と、無理矢理50両を押し付けて、逃げるように帰ってゆく。

文七は主人である卯(う)兵衛(へい)の元に帰り、長兵衛から貰った金を差し出すと、「それはおかしい、お前が遣いにいった先で碁に熱中するあまり、売掛金をそっくりそのまま忘れてきてしまったものを、先方は既に届けてくれて金はここにある、一体どこから、また別の50両が現れたのか」と、主人が問いただすと、文七は事の顛末(てんまつ)を白状する。

翌日、卯兵衛は何やら段取りを済ませ、文七をお供に長兵衛の長屋へ行く。卯兵衛は文七がしくじり…と、事の次第を説明し、50両を長兵衛に返そうとするが、長兵衛は⑬「江戸っ子が一度出したものを受け取れるか!」と啖呵(たんか)を切りもめるが、長兵衛の女房お兼の口添えもあり、50両を受け取る。卯兵衛は「これがご縁ですので、文七を近江屋の養子にして、近江屋とも親戚付き合いを」と、祝いの盃を交わす。「肴(さかな)」は卯兵衛が、身請けをしたお久であった。

後に、文七とお久が夫婦になり、近江屋から暖簾(のれん)を分けてもらい、麹町(こうじまち)に小間物屋(こまものや)を出した。後年、文七が工夫を凝らした元結(もっとい)を考案し、「文七元結」として繁盛した。

1.3 文七元結いの解説

①「三遊亭圓朝:明治期の落語界で、大名人として君臨していた噺家である。まず、圓朝が、山岡鉄舟のサロンの一員であったことに注目したい。サロンには、伊豆長八、山本長五郎(清水次郎長)、榎本武揚などがいた。山岡鉄舟は剣の使い手で、剣の極意が心を以って心を打ち「心の外に刀なし」として、「無刀流(むとうりゅう)」と名付けたものである。

サロンの総帥である山岡鉄舟は、圓朝に「圓朝さん、舌で話してはいけませんよ…」と圓朝をさとす。圓朝は座禅の修行に入り「無」の境地から「舌で語るからいけない。心の奥の奥の芯で語らねば、本当の噺にはならない」ということを会得する。長八も、鉄舟に学んでおり、同じように、「鏝の先に心を入れよ、鏝になりきって仕事をしろ。」と、弟子たちに言い聞かせており、鉄舟の「無刀流」の極意を左官に応用したものと推測できる。圓朝も長八も鉄舟の教えとする「無」の境地になることに努めたものと思われる。

圓朝の戒名は、鉄舟の極地となった「無刀流」にあやかるように、「無舌居士」と名乗った。鉄舟と圓朝は、鉄舟開基である谷中の全生庵に眠っている。全生庵には、伊豆長八が彫ったという地蔵が備えてあり、像の背中部に「一心頂禮(いっしんちょうれい)七十二(ななじゅうに)天佑(てんゆう)居士(こじ)」とある。ちなみに長八の戒名は「天佑居士」である。

落語の大名人である「三遊亭圓朝」のお墓  谷中全生庵

左官の大名人である「伊豆長八」作といわれている お地蔵様 谷中全生庵

②本所達磨横丁:長兵衛が住んでいた本所達磨横丁は、涙を誘う「唐茄子屋政談」の噺にも出てくる地名である。「唐茄子屋政談」では、苦労人の叔父さんが住んでいた場所であり、道楽でしくじったお店の息子を改心させる。 

③「左官の長兵衛」:「左官」は「さかん」と読むが、江戸っ子は「しゃかん」と発音する。魚の鮭(さけ)を「シャケ」と、「珪砂(けいさ)」を「ケイシャ」と発音することと同じである。

表1.文七元結の演者と語り表現であるが、表側にある噺家のすべてが「しゃかん」と発音している。「文七元結」の導入部分となる「枕(まくら)」では、「名人」か「賭け事」に関してのどちらかを振っている。どちらを優先しているかで、職人気質か金銭感覚かの演者の噺の構成がここに見られる。また、長い噺であるため時間等の制約で、枕を全く振らないで、本題に入ることもある。

表1.文七元結の演者と語り表現
噺家 噺の枕について 左官や左官用語に関して 噺家の特記
古今亭志ん生 賭事について 「鏝をつかんだ江戸では右にでるものはない」と佐野槌の女将が認める。 桂文楽と並ぶ名人。出囃子「一丁入り」。長男に金原亭馬生、次男に古今亭志ん朝。孫に池波志乃。
三遊亭円生 名人論に関して 柏木の師匠。出囃子「正札付」。
林家

 

彦六

噺家の個人の名人論、御店の修業について 稲荷町の師匠。彦六の正蔵。
古今亭志ん朝 噺家が名人に育つ時代背景に関して。 佐野槌の蔵を請けている設定。 矢来町の師匠。志ん生の次男。出囃子「老松」。
入船亭船橋 道楽に関して 落雁肌を「むらなく仕上げる」とする。 扇派。出囃子『にわか獅子』
柳家小三治 本人の趣味と道楽に関して 小さん門下。出囃子「二上り」。高田の馬場の師匠。
三遊亭円楽(五代目) 賭事に関して 土蔵の説明がある。 若い頃は「星の王子さま」の愛称。出囃子「元禄花見踊」。
立川

 

談志

賭事に関して 佐野槌出入りの職人に設定。 落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。出囃子「あの町この町」「木賊刈」(とくさがり)。
古今亭志ん弥 腕がよく鏝を持たせると右に出る者がなく、落雁肌といい壁をきれいに塗り込んでいく。 古今亭圓菊門下。出囃子「元禄花見踊」
立川

 

談春

賭事に関して 落雁肌や土蔵に関して述べている。 落語立川流所属。出囃子『鞍馬』。

④散り際(ちりぎわ)などもすっきりして:「散り」とは壁よりも柱の出ているところをいう。表1にある噺家でこの表現を示したものは見られない。現在「文七元結」を演ずる噺家では、「散り」に関しての説明や表現をしているものがなかった。

⑤落雁肌:現在この用語は左官で使用されていなく、「梨地肌」に近い仕上げの状態を表していると思われる。落雁肌は関西で茶室の「水捏ね仕上げ」に相当するものであるが、江戸では、「牛ほめ」に出てくる「砂摺り(砂壁)」に相当するものである。これによって、長兵衛は土蔵工事のみならず、茶室等の工事にも長(た)けていたと聴き取れる。「落雁肌」・「散り際」等にみられる左官専門用語を噺の中で表していることは、筆者の推測であるが、長八の助言や影響があったのかもしてない。 

⑥戸前口(とまえぐち)をこの人が塗れば、必ず⑦火の這入るような事はない:戸前口(とまえぐち)とは、土蔵の出入口を、特に戸前口と呼ぶことが多い。ここには外側から、観音扉、裏白戸、網戸の三種の戸が存在する。ときには、観音扉だけとして、裏白戸、網戸が省略されることもある。観音扉の一枚の大きさは、幅3.5尺(約105㎝)、高さ6尺(約1.8m)を常寸とし、扉の厚さ寸法は、大壁の厚さ寸法とほぼ同じである。観音扉の内側の面は、平常時に開放されていることが多く、常に見え掛かる面でもある。土蔵の観音扉の裏側は黒漆喰でピカピカに磨いた「鏡」と呼ばれ、土蔵への人の出入りが確認できた。また、その家を表す念入りな鏝絵が施されることもある。

また、土蔵造りの観音扉で扉と扉を合わせる箇所を手先(てさき)という。扉を閉鎖した状態で手先を合わせられた状態を手合わせという。この部分は紙一枚を滑り込ませるぐらい精度が必要で、ここに左官職人の腕の見せどころの高等技術が必要で手間もかかる。長兵衛が仕上げた手先であれば、火が入ることがないということが理解できる。

⑧身ぐるみ剥がれて半纏一枚:負けて裸になった者は、賭場で用意されていた尻切れ半纏が支給された。「尻切れ半纏」を着て町を歩くことは、すってんてんになって負けた証拠として、町中の人から見られた。 

⑨吉原の佐野槌(さのづち):落語によくでてくる吉原は、浅草の北側で現在の台東区千束四丁目付近であり、江戸から明治、昭和まで続いた政府公認の遊廓である。佐野槌は、実在の大店であり、圓朝は佐野槌ではなく、同じ大店の「角海老」で設定している。

⑪吾妻橋:落語の世界での吾妻橋は、「身投げの名所」となっている。誰かが身投げするとなったら吾妻橋、心中の名所は向島でもあった。

⑩「50両」の借金:佐野槌の女将(おかみ)は、長八へ約1年間の、それも無利息、無証文を以て「50両」を貸し与えた。このことは、女将も長八が返せる金額であることを前提にして貸し与えたものとして見ることができる。長八は、それだけの腕の持ち主で、名人であったことがこの場面から分かる。 

⑫小梅の水戸様:現在の墨田区向島1-3にある水戸下屋敷跡で現隅田公園である。現在、当時の庭園の様子を回遊式に復元してある。小梅の水戸様の近くに、噺の場面となる吾妻橋のアサヒビールの金色のユニークな造形が見える。

⑬「江戸っ子が一度出したものを受け取れるか!」:江戸の町は火事が多く、そのため、江戸っ子は「宵越しの銭は持たない」という、やせ我慢をすることが好きだった。度重なる大火に対して、一般庶民は、火事で悲観にくれるどころではなかった。表通りの大店は、普段から、製材した材木を深川木場等に預けており、火事にめぐり合わせると、翌日から灰をはらい、建築を開始する。裏通りの長屋住いの職人は好機到来とばかり、道具を抱えて現場に向かう。江戸市中の人口は、鳶、大工、左官等の建築職人とするものが特に多かったとされており、繰り返す火事が多かった証拠ともいえる。火事が多いため、内壁の仕上げは、京都に比較するとおちるが、土蔵に関しては、京都よりはるかに完成されていた。このように江戸の状況下では、大工をはじめ左官、鳶(頭かしら)、瓦屋、建具屋、畳職、経師、指物師といった腕におぼえの職人衆は、食べていくことにこと欠かなかった。大工の棟梁政五郎・熊さん、建具屋の「半ちゃん」等落語の登場人物でもある。火事の多いことは、江戸が東京となる明治の中ごろまで続いていた。

⑭「元結」:「元結」は「もとゆい」と読むのが正しいが、江戸っ子は「もっとい」と発音した。ちょまげの髻(もとどり)を結ぶ細い紐である。

杉並の左官です。塗り替え、リフォームお待ちしています。

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