左官一服噺 構法○小樽の木骨石造構造(もっこつせきぞうこうぞう)Otaru nogging stone structure 90.
小樽市は、石狩湾に面し、古くから港湾都市として発展しました。歴史的な建造物が数多くあり、全国有数の観光都市としても人気が高い都市でもあります。小樽駅からゆるやかな坂を下りながら建物の間から石狩湾が見えます。
江戸時代から 鰊漁(ニシンりょう)や鮭漁でのすでに集落が形成されており、明治2年、札幌に開拓使が設置されると、明治13年には、道内で最初の鉄道が手宮(てみや)と札幌間に開通しました。この鉄道は内陸の幌内炭坑からの石炭を船で積み出すために敷かれたものであり、さらに北海道開拓の移入口の玄関として、最も重要な港湾になります。
日露戦争後は南樺太の消費物資の供給地となるなど、小樽はこのころから急速に発展し、繁栄の一途をたどります。
小樽は明治末期から黄金期を迎え、左立七次郎の日本郵船、辰野金吾の日本銀行支店などの中央の建築家が随所に見られる。
小樽の町の第一印象は落ち着いて、軟石の暗灰色で重きのある色合いにある。これは未だに存在する木骨石造建築に裏付けられます。
木骨石造建築物とは厚さ三寸(約9㌢)以上の石・人造石または「コンクリート」を以て木骨を被覆あるいは充填して、外壁を構成するものをいいます。
大小の倉庫にはじまり、商家や初期の事務所建築にこの構造が普及しました。ここでの石造建築は木骨石造構造という独特なものでもあります。木摺板や軸組に厚さ15 ㎝ほどの切石を 鎹(かすがい)で留めるものです。
切石の厚さからすれば、木骨石張というより木造・石造の中問的構造に近いものです。木骨石造といえば、日本では幕末から明治初めにかけて、開港場建築を中心に、多く取り入れられたことが知られています。しかし、それらは主に洋風石造建築の見えがかりを追求したものといえます。それに対して小樽の場合は、木骨石造の二面性である、木造建築に石造のもつ耐火性・防寒性・耐久性、また石造建築に比較して工期の短さを兼ね備えているので、小樽商人たちの経済合理性が、追随したものと思われます。その理由(わけ)は、小樽が明治 37年に大火にみまわれ、ほとんど焼け野原となりまたが、木骨石造倉庫だけが焼け残ります。この教訓を元に商人たちは、木骨石造建築を選びますが、従来の土蔵の和風町屋に近い意匠で造られたことに特徴があります。
この外来の構法である、木骨石造建築が小樽に定着した理由には、商都小樽の急成長による防火建築への需要と、それをつくりうる財力が備わっていたことによります。また、材料となる「小樽軟石」と呼ばれる石材が周辺で産出され、構法的にも伝統的な土蔵造りと似通っていたことも大きな要因であります。
しかも、土壁のかわりに石壁を使うことで、寒冷地での施工や工期短縮にもつがったことなど、技術的な条件もあります。
小樽軟石は凝灰岩で、その材質感が見世蔵に使用すると鼠漆喰のような質感があったことも理由の一つしてあげられます。構工法は室内側に木で骨組みを造り、外壁に石を積む構造で、木と石は鋼(はがね)の両端を曲げ、先を尖らせた「鎹(かすがい)」でつないでいきます。
木骨石造建築物は、小樽に誕生して40年近く商人の街をつくり、財産を守ってきました。しかし、都市防火建築としての役割を、最新式の鉄筋コンクリート造に、その席をゆずります。
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