左官一服噺 第一回内國勧業博覧会の左官
明治10年(1877)8月21日、西南戦争のさなかに第一回内國勧業博覧会が開催されました。このときすでに、政府軍の勝利は決定的であり、その後1ヵ月後には城山落城となりました。
勧業博賢会は政府の殖産興業政策の一環をなすものです。我が国の明治政府は、明治6年(1873年)ウイーン万国博覧會に、さらに明治9年(1876)にフィラデルフィア万国博賢会に参加しており、この計画になりました。
政府は権力をもって全国の諸産物あるいは、技術を一堂に集め、新産業の普及や技術の発達を図りました。また、生産品の品質向上により、輸入貿易の振興を目的としています。この事業は、明治初期の日本産業発達史上に大きな意義をもつものでもありました。
博覧会に出品された物品は「明治十年内国勧業博覧会出品者心得」に書かれており、概略として「奇形の鳥獣虫・魚や古代の瓦、曲玉、書画等などは出品してはならない、
出品されるべきものは、世の人々が必要とする品で、今後はその品が国内はもとより、海外にも販売可能で、それが質の良さと着想に富んだ物とする。」としています。
これらをあえて明治政府が示したことは、内国勧業博覧会が旧態以前の見せ物小屋と異なり、国の産業を育成する一環として開催されたことによります。
特筆すべきことは、伊豆長八がここで漆喰鏝絵「望富嶽図於伊豆之奈島図」の額装仕立ての作品によって「花紋賞牌」と「褒賞状」を得ていることです。
長八は今までの、建物に塗って表現する「鏝絵」ではなく、西洋の美術としての室内に掲げる「額装」された鏝絵を表しました。ここで、長八は左官職人の意地として、虫眼鏡で見て取れる鏝絵を描いたことです。長八は西洋の美術という概念に対して疑問を持って製作にあったと思われる。長八は、その後の博覧会には、政府からの強い出展依頼も拒否し続けたといいます。
明治10年(1877)刊の風俗画報によると「第一回内国勧業博覧会は明治10年8月21日より102日間、上野公園地内で開催されました。展示館は、美術館・本館・農業館・機械館等があり、表門には大時計をかかげ公園の入口には高さ3丈余りの米国式風車を建てて水を汲み上げていました。館内には、各所にガス燈を配し、公園内にはちょうちんをつけて装飾を施し、その美観は筆につくしがたいほどであつた。来館者45万以上をかぞえ未曾有のにぎわいを呈した。10月26日には天皇皇后も行幸あり、約7000円の買上げをした。」とあります。
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