左官一服噺  地域○小杉左官3( Kosugi Plaster 3)98

千光寺にある竹内源造作の土蔵の戸前と等身大の鶴 土蔵の戸前は黒漆喰観音扉で角面は白で縁取りされている。観音扉の鏡 の部分は「恵比寿大黒・波と亀」の鏝絵がある。両脇の腰壁には黒漆喰で縁取りされ、大壁に9 羽の原寸大の様々な表情の鶴が描かれている。

千光寺にある竹内源造作の土蔵の戸前と等身大の鶴 土蔵の戸前は黒漆喰観音扉で角面は白で縁取りされている。観音扉の鏡 の部分は「恵比寿大黒・波と亀」の鏝絵がある。両脇の腰壁には黒漆喰で縁取りされ、大壁に9 羽の原寸大の様々な表情の鶴が描かれている。

小杉町では、文化的土壌のもとに、小杉左官として繁栄していき、多くの名工を輩出しています。明治期には、小杉の三ヶの西部、上新町に多く、左官竹内勘吉、左官山本新兵衛がいた。冬場で雪に閉ざされ仕事にならない時期、それぞれの左官が、競い合って研究していた。

左官竹内勘吉の息子竹内源造は、小杉左官の中で、特筆に値します。源造は、明治19 年(1886 ~ 1942)に小杉三ヶの名門左官、竹内組の頭領竹内勘吉の五男として生まれています。父勘吉は多くの左官職人を抱え、誠実で堅牢な仕事をし、絶えず左官工法の技術的研鑽を欠かさなかったといわれています。

源造は、左官技術研鑽に励み、めきめきと頭角をあらわし、明治34 年にはわずか15 歳の若さで、東京帝国ホテルの貴賓室の漆喰彫刻を仕上げています。ここでいう帝国ホテルは、コンドルの弟子の渡辺譲による設計のもので、明治村に現存する有名なライト設計のひとつ前のものです。

仕上げは、白漆喰の腰壁に様々な色彩のガラス玉を嵌め込んだものとされています。源造が34 歳の大正8 年には、弟子や仲間を20 人余りを連れて中国大連の朝鮮銀行の大連支店建築の仕事をしています。この建物は現在でも中国人民銀行大連市分行として存在しています。源造の鏝絵の特徴は、独特な肉厚で建物のデザイン構成上に大きく影響を与えています。もし源造が当時、華やかし左官装飾を東京でやっていたならば、左官の天才として、同じ鏝絵名人の入江長八・吉田亀五郎とともに、もう少し全国にその名が知れ渡っていたと思われます。源造は漆喰彫刻だけでなく、現場塗りの仕事においても、左官職人の四人分の仕事を一人で塗り上げるほどの達者であったといわれています。

源造は、弟子達の面倒をよく見てやり、多くの職人を育てたが、その反面、職人気質があり、技術の伝承には、秘密主義のところもあったといいます。源造の長男の源秀は、大正三年に生まれ、タイル職人になりました。

昭和の初め頃にタイルの仕事が増え始め、源秀を京都へ修業に出し、「自分は壁仕事を続け、おまえはタイルの仕事をすれば家一軒の仕事を引き受けることができるから」と源造は考えたといいいます。何人もの弟子や職人を抱えて仕事のない冬場もその面倒をみるという状態を、自分の代で断ち切るためだったのではないでしょうか。職人を抱えての親方家業はどこもきびしく、弟子の逸話としては、冬場、お米がなくなって、「親方もう米がない」というと、源造から「○○へ行って来い」といいわれ、隣村の○○さんに行って、米俵を一つもらって担いで帰ってきたといいます。○○家は源造のパトロ的存在で、いろいろと援助してもらっていたといいます。過去も現在も左官家業を切り盛りしていく苦労は、同じであったのであります。

現在、源造の作品は、砺波市千光寺の土蔵の大壁にある鏝絵『戸前に描かれた等身大9羽の鶴』、砺波市名越家の土蔵鏝絵『波に二疋龍』は、その大きさと迫力は圧巻で、伊豆長八でもこのような大きな作品は残していません。

また、近隣の富山市佐藤家には、北前船の豪商の面影を見るように土蔵扉に『鯉の滝のぼり』等があり、本拠地としていた小杉町三ケの十社宮には多くの奉納額が納められています。源造は、左官と称するより『彫刻竹内源造』を名乗り、多くの弟子を育て「小杉左官」の棟梁として昭和の初期まで活躍していました。

杉並の左官です。塗り替え、リフォームお待ちしています。電話03-3398-4335    http://s-kent.jp/contact/

 

 

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