左官一服噺 人物○伊豆長八①(chouhachi-izu)27
伊豆長八
「入江長八」別名「伊豆の長八」略して「伊豆長(いずちょう)」とも呼ばれ、文化12年(1815~1889)、伊豆松崎村明地、貧農の家に生まれました。一般には、伊豆長八と呼ばれ、この名で世に知られています。明治3年(1870)平民の名字が許されると、始め「上田」、後に「入江」の姓を名乗ったとされます。
長八は鏝絵を描き、「本異日本絵類考」に、「最古の技に長ぜり」「柱などに種種の絵画を泥装するを以て、専門の業となし、また花瓶額縁などに、花卉鳥獣の形を塗る、世人以て絶妙の技となす」と評された人物であります。
伊豆西海岸は耕地が狭く農業だけでは生活できず、元来大工、左官職人が多い地であり現在でも伊豆左官として活躍しています。小さい頃から頭脳が明晰でかつ手先が起用で、12歳の時に村でも手広く仕事していた左官棟梁・関仁助(にすけ)のもとで住み込みで働きますが、すぐに兄弟子をしのぐ才能を発揮したといわれます。長八の弟子時代の逸話も多いのですが、どのくらい真実であるか確証がえられないのでで、ここでは省略します。
長八が19歳のときに青雲の志ざしで、左官の腕を磨きに天保元年(1830)に江戸に出て先ず左官棟梁の某源太郎の弟子となり技を修めています。その後、日本橋中橋の波江野亀次郎の元で働くようになります。波江野亀次郎は当時江戸で指折りの左官棟梁の博正(くれまさ)組に所属していました。その頃から長八は絵に興味をもち、江戸で有名であった狩野派である谷文晁(たにぶんちょう)の門をたたいきましたが、谷が高齢であるため谷の愛弟子で川越在住の喜多武清(きたぶせい)を紹介され、住み込みで3年間絵を学んでいます。デッサンの腕を磨き、長八は画家になる希望を持っていました。しかし、左官と絵の勉強の両立ができずに、一時は新内語りとして旅芸人にも加わったりしていました。
その後に長八が左官職人と再出発し、彼を一躍有名にしたのは、天保十二年27歳の時に、焼失した日本橋茅場町(かやばちょう)薬師堂の再建工事にあります。それは正面に張り出した庇(ひさし)を支える左右の御拝柱(ごはいばしら)に「のぼり龍」、「くだり龍」を製作してあります。このころから長八は、鏝で絵を描く鏝絵に興味を示し、また困難とされる漆喰への彩色の研究に励むようになります。鏝絵は漆喰を塗った上に、鏝で描きだした絵で、「石灰画」ともいいます。長八が鏝を持つときは自分は左官職人ではなく画家であるという自負心から、その時代の左官の仕事着であるどんぶり・腹掛け・印半纏を着用せず、画家の作業着の着物とタスキでしたとされています。
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